マリラがアンの部屋へやってきて、たたんだ服を持ってきたようだった。

アンは、前からひそかに望んでいた、今流行りのそでの膨らんだ、パフスリーブの洋服を想像していたが、そこは現実主義のマリラである。そでの膨らみもレースのような飾りもなにもない、ただ清潔感があって機能的で、小ざっぱりとした、何のへんてつもない洋服だったのだ。

アンは、少し前からマリラがミシンを踏んで、洋服を手作りしていることは知っていたので、ありがたいと思うと同時に、思惑が外れてガッカリした。

マリラは、喜んでもらえるだろうと思っていたので、勝手に期待して、勝手にガッカリしているアンに対して、それで十分だと、アンの気持ちには応えなかった。

マリラは、アンがこれまでしっかりとしたしつけと教育を受けてこなかったことを憂いて、マリラの基準での正しい道へ進むよう、早々に教会へ行かせようと考えていた。

日本では、あまりそういった習慣はないが、国をあげての宗教的習慣が、教会へ行くことと、年頃の子供が学校とは別に、日曜学校で学ぶというようなことのようだ。

この日曜日に、マリラは、村の人たちへのお披露目を兼ねて、アンを連れていく予定だったが、持病の頭痛がひどく、アンを一人で行かせることとなった。

アンが着替えた洋服と帽子が、あまりに飾り気がない黒一色の装いだったので、野原で色とりどりの花で花輪を作り、帽子を飾り立てて教会へ向かった。

これがまた、村中の人たちの噂の元となるのだ。同じ年頃の娘たちは、ひそひそと、でも聞こえるように、バカにしたり、悪口を言ったりと散々で、仲良くしようとする気はさらさらなく、反対に関わらないほうが賢明だというような感じだった。

私がここで疑問に思うことだが、本来教会とは、相手を受け入れようと努めることを教える場だと思うのだが、なぜここでアンを仲間外れにするような行動を、皆はとったのだろうか。帽子に花輪を飾ったことは悪いとは思わないし、もし、教会での装いとしてふさわしくないのであれば、それをアンに伝えれば良いだけのことだ。でも、皆だって、おしゃれで華やかな服を着たり、花飾りをつけているので、アンのしたことも、特に問題ではないように思う。皆とは少し違うが、アン流のおしゃれといってよいと思うのだ。

私が思うに、要するに、宗教や教会が人間性を育てるのではなく、それぞれの普段の心がけから、良い人間が育つのではないかと、この部分からだけでも、強く感じるのだ。

話しは少し反れてしまったが、アンは周り中から白い目で見られ、友達もできず、寂しいひと時の中、教会から見える“きらめきの湖”を眺めて、そのことだけにこっそりと心の中で感謝するのだった。私は、アンのこういうところが大好きだ。

家に帰って、マリラにどうだったかを尋ねられたが、アンは村中の人の思いやりの無い言動のことは一切言わず、おとなしく、行儀よく過ごしたと伝えたのだが、そこへおせっかいばあさんのリンド夫人がやってきて、花輪で飾り付けた帽子で教会にきたことをマリラに言いに来たのだ。本当にいらぬおせっかいだ。

マリラは、それを聞いて、引き取った私が恥ずかしいよ!と言ったが、それをしてはいけないことだとは知らなかったといい、マリラに恥をかかせるようなら、これで孤児院へ逆戻りで、きっと肺炎にかかって死ぬことだろう!と泣きながら庭へ飛び出した。

マリラはここで、アンの行動を非難するばかりではなく、受け留めてあげないといけないことに気づき、アンのところへ行って、そっと抱きしめるのだ。そして、二人で家にもどったときに出迎えてくれたマシューとも抱き合った。三人の心のつながりが、少しずつ強くなってきていると、私は感じた。